ファッションメンヘラ

メンヘラを装備した人の思うところ。

夜のベランダ

何となく寝れなくて、自宅の夜のベランダに出てみた。

パジャマ姿だけではすこし手足が冷える気温。風はなく、空気がつんと冷えている。

3月のはじめ。

 

これは全て神が決めたことなのだろうか、

ここのところ、本当に辛いことばかりだった。

 

自分の頑張りが評価されず、

生きることが本当に辛かった。

昨日の夜は、もう二度と目覚めたくない、と思い

睡眠導入剤をいつもの6倍ほどの量を飲んでしまった。お酒を飲んで、リスカをして、死んだように眠った。

朝は来た。生きていた。

 

母は泣いていた。

 

一昨日のお昼は、

体力を振り絞って、大学に行った。

出して終わりだったはずの休学届は受理されず

心が折れた。

人がたくさん見ているところで、子供みたいにわんわん泣いた。

 

誰もが励まし、慰めてくれた。

 

 

わたしは死ねない。

朝が来ると、わたしは、死ぬのを延長してしまう。

日が昇り、月が沈み、日が沈み、また月が昇るように、

わたしは生き続けてしまう。

 

 

午後11時、

みんなが寝静まって、独りぼっちになった。

わたしは、外を感じたくなり、ベランダに出た。

 

夜の仕事をしていた頃のことを思い出した。

あの頃は、夜の世界に生きていた。

日が沈むとわたしは仕事に向かい、

月とともに働き、日が次に昇りに戻ってくる前に帰り、日とともに眠る。

わたしは太陽としばらく会っていなかった。

 

仕事を辞めてからもう何ヶ月経つだろう。

 

久しぶりに夜の世界に来ると、

この暗い世界がもたらしてくれていたものに改めて気がつく。

暗闇。孤独。冷えた空気。満月と月明かり。遠くの喧騒。

 

これは、私に似ている。

 

わたしは独りで、

少しの大切な人と、

静かに流されずに、ひっそりと生きている。

 

似ているから、落ち着くのだろう。

 

日が昇ると、

私の好きじゃない人も、恋人だった人も、ただの知り合いも、近所のおばさんも、

みんな生き始める。

進み始める。

わたしは焦る。

進まなきゃ。

わたしも生きなきゃ。

 

夜だけは、許される。

好きな人とだけ、居られる。

そしてわたしはガスを抜く。

「今日も疲れた。」

「でも今日は頑張れた。」

「だから甘い物を食べてもいいかな。」

私の好きな人は、私を受け入れてくれる。

私はガスを抜いて、また明日を生きる。

 

将来のこと、そんなの検討つかないけど、

 

明日こそ、いい日になればいい。

 

 

寒くなってきたから、そろそろ部屋に戻ろう。

んふふ。

私の大好きな人たち、どうかゆっくり寝られますように。

無題

もう、何もしたくない。

絵を描くのも、

本を読むのも、

映画を見るのも、

勉強するのも、

これからのこと考えるのも、

LINE返すのも、

誰かと話すのも、

気を遣うのも、

イライラするのも、

食べることも、

休むことも、

息をするのも、

全部面倒。億劫。

 

何のために生きてるのか、分かんない。

 

Twitterを開くのも嫌になった。

病んだツイートばっかりしてしまうし、

それを見てメンヘラかまってちゃんだと思われるのも嫌だし

心配するフリをされるのも嫌だし

 

元気な人たちを見ているのが辛い。

 

自分の頑張りなんて、ほんのちっぽけなことで

褒められるようなことじゃなくて

認められるわけもなくて

 

 

これから先のこと、

ちゃんと決めなきゃいけないのはわかってる、

でもそんな気力ないよ。

 

生きる気力すらないんだもの、

消えたくて仕方ないんだもの、

 

 

誰かに頼って縋り付きたいけど

そんな迷惑なこと、できない。

みんな自分のこと頑張ってるんだから。

わたしなんかが邪魔しちゃいけない。

 

 

ひっそり、

誰も気が付かないように、

消えてしまいたい

 

誰もわたしのことを知らない世界に行きたい、

わたしは存在しなかったことにして、

そうしてこっそり、いなくなりたい。

 

 

もう疲れちゃったんだよ。

 

美味しいものを食べたって、

胃がもたれてえずいちゃうし

 

あったかいコーヒーや紅茶も、

心まではあっためてくれないし

 

眠ってみたら朝が来てしまうし

 

もう何も楽しくない。

リストカット

いま、リストカットをした。

 

別に何かあったとかそういうんじゃなくて、

ただなんとなく辛くて眠れなかった。

 

一旦思いついてしまったら

もうやらずにはいられないから、

わたしは腕を切った。

 

 

 

カッターを用意して、

絆創膏を用意して、

腕を晒して、

ゆっくり、刃を入れて、切った。

 

いちどめ、

ぷちぷちと切れる皮膚の感覚。

 

にどめ、さんどめは同じところを、

深く、

血が滲み出るところを、

抉るように、

 

赤黒いその液体を見ると、

心が落ち着く。

 

それが腕につたってしまう前に、

絆創膏を一つ取り出して、

中央のガーゼ部分に滲ませて、

ゆっくりと貼る。

 

 

こけたりして怪我した時は、

お母さんがいつも絆創膏を貼ってくれた。

痛かったね、よしよし、って

貼ってくれるだけで、治ったような気がして

嬉しかった。

 

 

傷がついても、

もうお母さんには絆創膏貼ってもらえないから、

自分で貼る。

でも、貼ったら治る。

お母さんが貼ってくれた時も、

貼ったら治ったんだから。

 

 

これで、もう大丈夫。

すぐ治るよ。

 

お母さんの声が聞こえる。

 

 

左腕に残ったかすかな痛み。

 

このおかげで、

心を落ち着かせて、眠りに誘ってくれる。

この痛みがあれば、安心する。

なにも考えなくていいんだ。

 

 

もう大丈夫。

 

 

明日になったら、ちゃんと元気になるから。

パパ活

パパ活

 

この言葉を初めて聞いた時、

ある人のことをふと思い出した。

 

 

その人は、いつもいい匂いがした。

香水の匂いだ。

どんな名前のものか、

どれくらいの価値のものか、

そんなのは知らない。

ただ、すごく鼻に残る匂い。

 

その匂いを嗅ぐといつも、

わたしは興奮した。

 

 

その人は、

初めてわたしに会った日、

わたしを高速神戸駅まで迎えに来た。

 

そして、

すぐ近くのスーパーの地下駐車場に止めていた

その人の車で、

 

その人は、わたしに、

立ちバックで中出しをキメた。

 

 

当時、わたしはまだ高校生で、

 

その人は、わたしより30年ほど長く生きていた。

 

 

その人の「モノ」が人並みのそれではないことは、

わたしの身体が理解した。

 

まるで初体験のような痛みが、

わたしを悶えさせた。

 

 

勿論、ただの駐車場であり

声など出そうものなら人目についてしまう。

 

懸命に、涙と声を堪えた。

けれど堪えた涙と声の行き場はなく、

車の後ろに積んであったティッシュの箱を握りしめるしかなかった。

 

 

その人は、事が終わると、

わたしを助手席に乗せ、

須磨水族園が目の前に見えるホテルに連れてきた。

 

そこで、もう二度ほど、行為に及んだ。

 

 

そのあとは、

少し多めの交通費を頂いて、

また高速神戸駅まで送り届けられた。

 

 

 そして、それ以降度々、

土曜日や日曜日になると

神戸や明石に行っては、ホテルに連れられ、

その身体を捧げ、

時にはその人の身体を揉みほぐし、

時にはお昼ご飯をご馳走してもらい、

ホテルを出る前にお金をもらい、

帰路につく。

 

そういうことが、

1年ほど続いた時期があった。

 

その人に会う、イコール、セックスだった。

 

だから、わたしはその人の香水の匂いを嗅ぐだけで、

これからの情事を期待して、

下品にもじわじわと濡らしていた。

 

 

その人の性欲は、まるで猿だった。

 

人目につかないところを見つけるとすぐに挿入したがった。

その都合で、わたしは生理の日以外、

毎回下着の装着を禁じられ、

スカートであることが必須であった。

 

そして、

その人は写真を撮るのが趣味だった。

その技術は素人目に見ても高く、

わたしがカメラの世界に魅せられたきっかけとなった。

 

それとこれとが関係あるのかは分からないが、

その人はいつもわたしとの行為を映像に収めていた。

「おかず」にするためだったそうだ。

三脚を立て、ビデオカメラを設置し、

時にはそのカメラを手に、わたしを映しながら犯した。

わたしはその映像を1度も見たことがない。

関係が解消されてしばらく経ってから、その映像はすべて処分してくれたそうだが、

真相は定かではない。

もしかしたらネット上で晒されているかもしれないが、

そもそもその映像内での行為自体が犯罪だ。

自らの犯罪の様子を晒すなんて、

そんなリスキーなことをするほど馬鹿な人ではないだろう、

と都合よく考えている次第である。

 

 

また、

その人には、奥さんがいた。

そして、毎度毎度わたしをホテルへ連れていくだけの財力もあった。

足りなかったのは、性欲の行所だけらしかった。

 

 

当時のその人との関係は、

何とも言い難いのだ。

セフレほど淡白でもないけれど、

恋人ではないし、

きちんとお金を貰っていたわけではないから、

援助交際でもない。

 

1番ニュアンスが近いのが、

パパ活」だった。

 

勿論、行為に及んでしまっているので、

厳密には違ってくるのだけれど。

 

その人は、わたしを、

ただの性欲の捌け口としては扱わなかった。

まあ、今から思うと、ただそれはわたしをキープしておくためにそう扱っていただけかもしれない。

けれど、

その人との関係の中でわたしは一銭も出していない。

むしろ適度にプレゼントを与えられ、

食事を与えられ、

デートスポットに連れられ、

なにやら人生の話までしていた。

 

そういう、セフレと恋人の間をとったような関係だった。

 

 

わたしに彼氏が出来た頃から、

彼氏に対する罪悪感を抱えきれなくなっていった。

 

ちょうどその頃に行為に及んだ時。

その人は、生理中のわたしの中に突っ込んだ自分の「モノ」を、

勃ちが悪いから、と再びわたしの口に含ませた。

あの時、自分の血液の鉄くさい味を知った。

 

それから、

その人との関係は徐々に薄れていった。

 

 

今ではもう連絡も取らないし、

その人がどこで何をしているかは知らない。

会いたいとも思わないし、

勿論、また関係を持ちたいだなんて滅相もない。

 

それに、

その人との関係があったからと言って、

特別なにか変わったこともない。

ホテルに行き慣れてしまったことと、

わたしの性癖が少し曲がってしまったことくらいである。

 

 

けれど、

人混みの中でふと、その人の香りを感じると、

わたしは舌で鉄くさい味を感じる。

 

 

出来れば隠しておきたい、

嘘のようで本当の話。

死にたかった時の話

死にたい。

それ以外の感情がない、

そんな瞬間が、

かつて一度だけあった。

 

 

 

小学校の頃から、勉強が唯一の取り柄だった。

 

怒ると怖いオバサン教師に怯えていた。

その教師に気に入られ、怒られない為には

とにかく真面目に勉強するのが手っ取り早い。

 

幸い要領の良いほうだったわたしは、

すぐに気に入られた。作戦は成功。

 

そんな不純なきっかけで、

熱心に勉強をするようになった。

 

中学校の試験の成績はいつも上位。

両親や友人、教師に褒められた。

 

 

勉強さえしていれば、

誰からも認めてもらえた。

 

わたしにとって、

承認欲求を満たすために

こんな簡単なことはなかった。

 

 

中学3年から通い始めた塾は、

高校3年まで続けた。

特に高校3年生の1年間は、

人生で一番勉強した。

食べる間や寝る間も惜しんだ。

1日に14時間勉強する、なんてザラだった。

 

わたしは神戸大学を目指した。

 

なりたいものとか夢は特になかった。

なんとなく得意だった英語を専攻したく、

親孝行のためにも有名な大学を選んだ。

 

 

結果、

合格ラインぎりぎりのところで合格した。

 

合格を知らせた時、

母が電話越しに号泣してくれた。

今でも昨日のことのように思い出せる。

 

人生で最大の親孝行が出来た。

 

けれど、わたしの人生は、

ここでゴールテープを切ってしまった。

 

 

 

大学に入学した。

そして2年も経たないうちに、

 

わたしは不登校になった。

 

どれだけ熱心に勉強したところで、

誰も褒めてくれなかった。

 

何のために勉強すればいいのか、

途端に分からなくなってしまった。

 

 

周りのレベルは、想像以上に高かった。

もちろん授業などついていけない。

 

教授が英語で喋る。

みんなが笑う。

だけど、わたしには

何が面白いか分からない。

 

言葉が理解出来なかった。

 

この孤独感は、

かつて感じたことのないもので、

 

苦痛だった。

 

 

大学2年の秋、

とある平日。

父は仕事に、母も兄も外出していた。

 

わたしは家にいた。

 

リビングの椅子に座ったまま、

ふと、考えてしまった。

 

わたし、こんなところで何してんねやろ。

 

大学、行かなあかんのに。

 

両親が汗水垂らして稼いだお金を使って、

4年間塾に行った。

そして、

決して安くはない学費を払い、

わたしは大学に、

神戸大学に所属している。

 

それにもかかわらず。

 

 

大学には行けず、

今現在も「講義代」という

安くはない、無駄なお金が発生してる。

 

かといって迂闊に外にも出られない。

 

こんな普通の日の昼間に、

若い子が何してるんだ、って思われるから。

 

 

逃げ場がなかった。

 

 

生きているのが、

生きていくのが、

とてもしんどいと感じた。

 

いっそ、死んでしまいたい。

 

そうしたら、

大学に行かなきゃ、なんて思わなくていいし

お父さんお母さんも無駄金叩かなくて済むし

 

死にたい。

死にたい。

死にたい。

 

 

死にたくて、消えたくて、たまらなくて、

わんわん泣いた。

 

たった一人で、

床に座り込んで、

椅子に縋り付いて泣いた。

 

涙はなかなか枯れなかった。

 

 

 

何度か復帰を試みたものの、

結局、大学には行けていない。

 

いろんな原因があるけれど、

目的がないのが一番大きい。

 

周りには「もったいない」と言われるけれど、

 

 

わたしは思う、

死ぬよりはマジだ、と。

 

 

あの頃、本当に死にたくて、

左腕をカッターで切ったりもした。

 

でも、本当は、

ちゃんと生きたいだけなのだと

後から気がついた。

 

自分の生きる目的を持って、

やりたいことをやって、

人生を謳歌したいだけなのだ、と。

 

 

いまでも、

人に認められることは気持ちいい。

それに、生きる目的など見つかってない。

 

 

だけど、とりあえず生きてるから大丈夫。

そのうち見つかるさ。

 

それくらいの心の余裕は出来たので、

良いことにしている。

男の図鑑集め

ポケモンは、ストーリーをクリアするより

図鑑を集める方に力を注ぐタイプだった。

 

新しいポケモンに出逢えば、

捕まえて、

図鑑に登録。

 

同じポケモンが再び現れても、

先程の興味などは嘘のように消えている。

 

 

わたしの男遊びは、

そういう志向だった。

 

 

抱かれるまでの時間。

これが、可笑しくて仕方が無い。

 

男の家の近くの居酒屋で、

サラダを分け合う。

 

その数時間後には、

互いに生まれたままの姿で

欲をぶつけ合うというのに、

 

そんなことなど匂わせない。

 

いや、正確には

気が付かないフリをする。

 

お互いに。

 

 

しかし腹の底で考えているのは、

多分男も同じだ。

 

この男は、

どんな身体をしていて、

どんな「モノ」を持っていて、

どんなふうにコトを運び、

わたしを犯すのか。

 

 

サラダ、多すぎるよね、って

顔を向かい合わせて笑う。

 

穢れなど知らぬと言わんばかりの顔をして。

 

 

 

そうして、何だかんだと理由をつけて

彼女ヅラをして男の家に上がり、

興味もない映画なんかを眺めながら、

ゆっくりと情事が始まるのだ。

 

 

おそらくわたしには、

自己肯定感が欠如している。

承認欲求が強すぎるのだ。

 

だから、セックスが好きになった。

 

こんなにも目に見える形で、

自分を求めている相手がいる。

 

その事実だけが、

わたしを数多くのセックスへと駆り立てていたように思う。

 

 

しかし、

事が終わり、夜が開け、家路に着く頃、

最大で最悪の虚無感に襲われる。

 

 

ああ、また知ってしまった。

 

図鑑は、またひとつ埋まってしまった。

 

「?????」と表示されていた名前も、

特性も、タイプも、

分かりきってしまった。

 

 

次は違うのを捕まえないと。

 

 

 

そうなってしまうと、

例えその男から何度も何度も誘いがあろうと、

わたしには予定が出来てしまう。

 

いずれはそのやりとりも煩わしくなって、

その男の存在ごと、手元から消してしまう。

 

 

 

図鑑の数が、

自分の歳と変わらないくらいに増えた頃、

図鑑集めをぱったり辞めてしまった。

 

飽きてしまった。

 

もう、捕まえることに魅力を感じなくなってしまった。

 

面倒臭い。

 

 

女にしては早すぎた終焉かもしれない。

 

けれど、もういいのだ。

飽きてしまったものは仕方が無い。

 

それに、

見ず知らずの男などに求めずとも、

わたしの承認欲求は充分満たされている。

そういうことに、ようやく気が付けたのだ。

灯台下暗し。

 

 

持て余すことになった性欲は、

自己処理をするか

恋人にぶつけることにしている。

 

 

いまはただただ、

手持ちポケモンを育てるのが楽しい。

 

 

でも、四天王の後に出てくるラスボスみたいなの、

あれだけは本当に子供泣かせだと思うよ。

お絵描き教室

「チューリップの絵を描いてみましょう」

 

まだランドセルも背負っていないくらい

物心ついて間もない頃、

お絵描き教室で先生がそう言った。

 

わたしはうきうきした。

 

何色を使って、

どんな形のものを描いたんだったか。

 

けれど、

真っ白な画用紙の上に

表現するのが楽しくて仕方ない。

 

だって、

わたしの絵は上手だって言われるから。

 

 

 

わたしは小さな画家だった。

 

 

友達と遊ぶのは苦手だった。

いつも泥団子を作ろうと誘われるからだ。

 

砂は「ばっちい」から、触りたくなかった。

 

母親の教育が功を奏し、

ブランコから降りた後は

すぐお尻を手ではらうような子供だった。

 

ましてや、水分を含んでどろどろになった泥など、

鳥肌が立った。

たとい友達との楽しい共同作業であっても

触れたくはなかった。

 

 

だから、

専ら、家の中でお絵描きしている時間の方が

よっぽど平和だった。

 

祖母の家に預けられることが多かったこともあり

ただひたすら、飽きもせず

自分の描きたいものを描き続けていた。

 

そして、祖母はいつも言った。

「あんたはほんまに絵が上手やわ」

母や父も、みんながこぞってわたしの絵を褒めた。

 

有頂天だった。

 

 

そんなわたしに母親が勧めてくれたのが

例のお絵描き教室。

 

チューリップの絵を描いたのは、

そこに通い始めて三度目くらいのこと。

 

わたしなりのチューリップを表現した。

 

ふと、そこに先生が通りかかり、

厳しい口調で言い捨てた。

 

わたしはいまでも、

その時の先生の言葉を忘れられない。

 

 

「チューリップはそんな色じゃないです。」

 

 

わたしはその後、帰宅してから

大泣きした。

 

 

「正しい色」で描かれたチューリップの絵は、

破り捨てようとしたところで母親に止められた。

 

 

悔しくて、悲しくて、堪らなかった。

絵だけではない。

自分の全てを否定された気分だった。

 

 

母親はわたしをその教室に通わせるのをやめた。

 

 

今から思うと、

その教室での方針は、写実性を重視していたのかもしれない。

よりリアルに描く練習をさせるために、

そういった指導をしたのだろう。

 

 

だから、結局のところ、

誰にも悪意はないのだ。

 

わたしを画家気分にさせた両親や祖母も、

お絵描き教室の先生も、

泥団子の友達も、

わたし自身も。

 

 

それでも、わたしは泣いた。

わんわん声を上げて。

自分の作品に手をかけながら。

 

そしていまでも忘れずにいる。

 

 

そしていまでも、

泥団子は苦手だ。